Fujimi-en

冨士美園


村上で最も勢いのある名手

村上でもっとも勢いのある名手新潟県村上市は400年前から緑茶製造の文化が根付いた土地であり、緑茶は地域産業として代表的な農作物にも挙げられています。

その村上の地に、手揉み品評会で数々の優秀な成績を収め、地域メディアにもしばしば取り上げられる大変有名な緑茶の達人がいます。

それが、冨士美園の6代目にあたる飯嶋剛志さん(現代表は5代目にあたるお父様)。

飯嶋さんは37歳でありながら、村上茶の若き後継者として、あるいは日本茶インストラクターとして、地域を代表する活躍を見せていますが、実は今日に至るまでに、飯嶋さんと冨士美園には想像を絶するほどの苦労があったのです。

原点は60aの荒廃した茶園

60aの荒廃した茶園からスタート創業145年を迎える伝統的な緑茶農園である冨士美園。

現在は村上の地を代表する緑茶の製造会社ですが、実は4代目の時代に一度茶葉の製造が廃止され、仕入れ品のみを販売するスタイルに切り替わりました。そのため、平成8年に現代表の5代目が農園を継いだ時には、60aの荒廃した農園だけが残り、茶葉の製造機も売り払われていた状況だったのです。

その光景を目にした、冨士美園の6代目にあたる飯嶋剛志さんは、いずれは冨士美園を継承し、自らの手で村上茶の製造を再開させることを決意し、高校を卒業して間もなく単身で浅草、そして静岡の国立茶業研究所へと修行に向かったのです。

緑茶の勉強を終え、新潟に戻った飯嶋さんの前には、相変わらず荒廃した農園があるのみ。まずは、この農園を緑茶の育つ環境に復活させることが最初の作業でした。

「机上の勉強はしていたけれど、実践はまるで違う」と飯嶋さんがおっしゃる通り、はじめのうちは誰が教えてくれるわけでもなく、苦労の連続だったそうです。それでも少しずつ茶葉の栽培が成功をおさめ、そんな折に、幸いにも製茶工場を畳むという知人から、製造機を譲り受けることが出来ました。

60aの荒廃した茶園から、ついに、冨士美園の新たなる歴史が始まったのです。

手揉みの技術が教えてくれる

手揉みの技術が身体を動かしてくれる「教えてくれる人がいなかったので、何もかも自分の力でやるしかない。そんな時、手揉みの技術がタイミングを教えてくれました」

製茶の機械を手に入れたものの、製造工程に必要な知識はすべて机上のものばかり。

実践における手法やタイミングは何もわからない状態でした。

しかし、その時に指標となったのが、手揉みの技術。

茶葉から手揉み茶を製造する過程を身体で覚えていた飯嶋さんは、機械の移りゆく工程も、それに応じて直感的に理解することが出来たそうです。

そのためか、飯嶋さんの作り出す緑茶は、茶葉の味を最大限に引き立て、まるで手揉み茶を連想させるような旨み成分を多く含んだ作品に仕上がっています。

400年の歴史を終わらせない

400年の歴史を終わらせたくない「私にとっての緑茶は、村上の文化そのもの」と飯嶋さんは仰います。

「他の農作物は作ったところで売る先がない。しかし、村上茶は売りたくても製品が不足しているほど。こういった環境を作ってくれたのは、400年にも及ぶ文化に他ならない。そして、その文化に対して、私は感謝せざるを得ない」

寒さに弱い茶葉。村上という雪の降る土地にとっては、決して適地適作とは言えない作物です。しかし、それに対しても飯嶋さんは次のように考えています。

「確かに、村上で緑茶を作るのは難しいかもしれません。それは事実であり、そのことを理由として長い間続いてきた文化を終わらせてしまうのは、とても簡単です。しかしながら、一度終わらせてしまった文化を再生させるには、不可能と言えるほどの困難が伴います。この地に生まれ、この地で育った限り、そして偶然にも村上茶に関わることになった以上、少なくとも私は、この文化を終わらせるつもりはありません」

人々の生活を支える「文化」を守っていきたい。その信念こそが、飯嶋さんを動かしているのです。最後に、飯嶋さんから次のようなメッセージを頂きました。

「緑茶は毎日飲むものです。飲み方など気にせず、手軽に、簡単に試してみてください」

Facebook

緑茶名人公式Facebook